「いつものやつで、いいのかい?」
マスターの問いかけに、康介は煙草を加えながらつぶやく。
康介のマイグラスを奥から取り出すと、マスターはそこになみなみとホッピーを注ぎ、きつめのイモ焼酎をさらに加える。
「ほらよ、爆弾ホッピー」
出来上がったホッピーを割るための缶ビールを一緒に差し出し、カウンターに置くマスター。
薄汚れた500円硬貨をカウンターの上に置くと、康介はうまそうにグラスの中のホッピーを一気に飲み干した。
康介のその姿を認めると、マスターは半ばあきれながら、いつものように親しげに語り掛ける。
「相変わらずだねぇ、今日は臨時収入でもあったか?」
「いいや、久々にジーパンを交換したら、その中に500円が紛れてただけよ」
「ははぁん、それはそれでよかったじゃねえか」
でもなぁ…康介はため息交じりに愚痴を始める。
期待していたオーディションの主役が取れず、またいつものようにチンピラの親分役なら空いている、と言われて誘いを断ってきた話。
演劇で飯を食うのは諦めたらどうだと、バイト先のオヤジに言われた話。
40手前になって、今更歩いてきた道なんか引き返せっこないっての…2杯目のホッピーをあおりながら、康介はさらに愚痴を続ける。
「明日の件は期待できるから、今度こそは金のめどが立ちそうだよ」
マスターは“オーディションかバイトの面接、どっちのことだ”と半ばあきれ気味に言う。
「…バイトの面接だよ、夜間の酒屋の配達。これ以上ツケは利かないっしょ」
マスターがコクリと頷くのを確認すると、康介は再びカウンターに500円玉を置き、ホッピーのお代わりを依頼した。
ここは東京、五反田。
疲れ切ったサラリーマンと、夢と希望を追いかける若者…と一部の中年が集う街。
誰かがそう名付けたわけではないが、下町の居酒屋には毎夜のように夢と希望を語り、酒をあおる男たちがたむろするのだから、あながち間違いでもないだろう。
槙島康介も、そんな夢追い人の一人だ。
親の反対を押し切って、演劇を志して早18年。五反田の倉庫を根城にしている「劇団・五里霧中」に飛び込むと、主役を張るまでの活躍…といえば聞こえがいいが、それはあくまで劇団内でのポジション。
映画俳優を目指してさまざまなオーディションを受け続けているが、テレビに出たといえば某国民的時代劇の、その他大勢の斬られ役、バラエティ番組の再現ビデオの端役ぐらい。
いつかはメジャーな場所で槙島康介ここにあり!と一旗揚げたいと考えているが、そこまで世の中がうまくいくわけではない。
そんな康介も、気が付けば年齢も40歳が近づき、演劇で飯が食えるようになりたいと、定職に就くこともなくフリーターで食いつないでいる。
いや、食いつないでいるというよりは「夢を追いかけている」のだから、決してネガティブになる必要はない。
そういう励ましをしてくれる街、それも五反田なのだ。
「槙島…康介さんはどちらに」
「あ…」
康介がなけなしの金を払って、店を後にしようとしたとき、初老の老人が康介を呼んだ。
マスターは目線で“こいつです”と訴えると、老人は同じように目線を動かし、康介の姿を認めた。
「康介は、俺だけど…アンタは何だい」
「いきなり申し訳ない、私はこういう者です」
ありきたりなビジネスマン的な所作で、康介に名刺を差し出してくる老人。
その名刺を見るなり、読みにくそうな漢字を認めたのか、老人の名前を確かめるかのように声を発し始める康介。
「津屋崎…マイシマ開発…マンション屋が、この俺に何の用だい」
マイシマ開発…その言葉を聞いた途端、マスターが康介の肩をつかみ、耳打ちを始める。
「康介、アンタこそわかってるのかい? マイシマ開発は、業界トップの不動産業者だぞ」
「だからさマスター、そんな金持ちが俺なんかに何の用だって!」
場の雰囲気が乱れようとしていることを悟ったのか、津屋崎は本題を切り出すことにした。
「我が社の映画作品に出演していただきたい」
津屋崎の言葉に、マスターも、康介も唖然とした。
不動産屋が…映画。そのアンバランスさに唖然としたともいえるが、それ以上に真剣な津屋崎の表情に唖然としたのだ。
「本気か…素人が映画を撮るなんて…」
「槙島さんがそうおっしゃるのも無理はありません…スタッフはすでに確保しています…例えば、そうですね…高富正志さんとか…」
「お、おい…高富正志といえば、日本映画の巨匠・田中一也の弟子…」
「ええ、その高富さんですが…他にも…」
「わかった、それは分かった…とにかく、爺さん…というか、マイシマ開発が本気で映画を撮ろうとしているのは、分かった」
「では、我が社の映画にご出演を…」
康介は話を続けようとする津屋崎を制止する。
「俺のこの風貌を見て言ってるんだろう…どうせ、チンピラの親分役ぐらいだろうが」
康介の言葉に、今度は津屋崎の反応がすごかった。
「何をおっしゃいますか、この映画の主役を、あなたにお願いしたいと申し上げているのです!」