康介は、目の前で顔色を失いつつある佐夜子を凝視している。
そういえば、初めて彼女を見つけた時、佐那浩二と会話をしているところだった。あの時はそんなに気にも留めていなかったが…佐那浩二と佐夜子が関係を持っているとなれば、今までの自分のプランは大きく崩れ去ってしまう。
逃げ出した男、宗史朗のことよりも佐夜子のことを優先してあげればいい、佐夜子の言うがままにシナリオを直して映画を作ればいい、それくらいの気持ちだった。でも、宗史朗の独白により、明らかに顔色を失っている佐夜子を見ると、宗史朗の独白はあながち間違っているわけではなさそうだ。
…やれやれ、どうして若い者の色恋沙汰に翻弄されなくてはならないのか…康介の気持ちは急激に萎えていくのだった。
「佐夜子、どうなんだい?」
それぞれの脳内に、宗史朗の言葉が響き渡る。
「…仕方がなかったの」
「仕方が…ないだって…じゃあ、佐那浩二との関係を認めるんだね」
「…ええ…就職先のあっせんに、目がくらんだだけ…私、映画プロモーターになりたいんだもの」
目から大粒の涙を流しながら、ガラス越しの宗史朗に向かって叫んでいる佐夜子。
「そんなこと…僕に頼んでくれれば、親の力を借りて…」
「それじゃあ意味がないんだ、坊ちゃんよ」
呆れている康介の態度が、宗史朗には理解できなかったようだ。
「康介さん、なんで意味がないんだ」
「…なあ坊ちゃん、オマエは自転車に1人で乗れるようになった時のことを、覚えているかい」
「それとこの話と…」
「じゃあ、初めて自分の名前をすべて漢字で書けるようになった時のことは?」
「…どちらも、そんなに覚えてはいないけど…それらの話と、今回の話、何の関係があるっていうんだい」
康介は、宗史朗に対して両手を軽くあげて”理解できない”というポーズをとってみせる。
そのしぐさを認めたのか、宗史朗の反応が再び感情的に変わっていく。
「僕をもっと頼ってくれれば、身体を売るようなことなんかしなくてよかったんだ…僕は…」
「宗史朗!」
「!!!」
「オマエ、一人で何でもできるようになったつもりでいるようだが、それは違うぞ!」
「…」
「人間って生き物はな、夢に向かって頑張っている時、自分の力だけでそれを成し遂げようとするもんなんだ、オマエにはそれがわからないだろう」
「どういう意味だよ」
「…佐夜子さんの気持ちを考えてみろ、おのずから答えが出てくる」
涙を拭きながら、佐夜子は声を震わせて語り始める。
「誰かに頼ってかなえた夢は、自分の中に達成感が芽生えないのよ…与えられた夢は、夢じゃないのよ…」
「佐夜子…」
「宗史朗さん…あなたを頼ることは、いつでもできたわ。でも、自分のなりたいものに、なれるチャンスがある…自分の力だけでかなえたいなら、時にはなんだってするの…」
「…で、でも…」
「ごめんなさい…でも、私だって宗史朗さんに捨てられたと思っていたから…」
「佐夜子、それは違う…」
「あの日のあの時間、あなたはあの場所に来てくれなかった…私はあの時点で捨てられてしまったのだと思った…佐那先生とのことは、それからあとのこと」
「う、うそだっ!」
「佐那先生を頼ったって、結局は頼る人が違うだけで、夢をかなえたことにはならないってわかってた…でも、あなたを失った私には、自分の夢をどんなことでもしてかなえるしか、生きる気力はわかなかったのよ」
「…でも、それは…」
「信じてもらおうとは思っていません…でも、あの時の私だって、宗史朗さんのことを信じられなかった…もう、お互いに信じられなくなってしまったのよ」
「少しいいかい、佐夜子さん」
革ジャンを脱ぎながら、少々汗ばんでいる額を見せつけるように、康介は佐夜子を問いただす。
「先日、俺はスーパーの前で佐那浩二と会っているあなたを見かけた。そのことについてはどう説明してくれるかな?」
「…あれは、本当に偶然。佐那先生は…今でも私に関係を迫ってくるのです…もちろん、断っていますけど…先生の方からのプレッシャーがあるのです…最後に関係を持ったのは1年前のことです」
「…今は?」
「あれだけメジャーなお立場になられた方です。私みたいな女よりもいい女を捕まえたのでしょうし、知名度が上がったせいでなかなか下半身を自由奔放にするわけにはいかないのでしょう…先日も“人の目があるから”と、誘っていたかと思えば、すぐに去って行かれましたし」
「…用意周到な変態だな」
「なので、私は日中外出をしません…弟の手伝いにと思って、人気の少なくなった夜に買い物に出かけますが、その行動パターンを先生には見破られたみたいで…先日も一方的に待ち伏せされていたのです」
「…完全にストーカーだわ、それは」
静かにコクリと頷く佐夜子の姿。そんな佐夜子の姿を見て、宗史朗も少々落ち着いたのだろう。あれほど聞こえていた荒い息遣いも、舌打ちの音も次第に聞こえなくなってきた。
「夢の…再構築が必要だな」
重苦しい雰囲気を振り払うかのように、康介が話を切り出した。
「いろいろ誤解があったようだが…誤解が誤解だと分かったのだから、少し冷静になろう…そうすれば、お互い歩み寄って、同じ夢を持てるんじゃないのか」
康介の提案に、佐夜子がすぐに賛同する。
「…映画を作りたいという気持ちはわかります…私も、その夢に乗らせてもらいたいことは事実です」
佐夜子の言葉を待っていたのか、宗史朗も続けて意思表示をする。
「…僕のシナリオにこだわらなくていい、僕のシナリオが少しでも形にしてもらえるなら、僕はそれだけで十分だ…あと…佐夜子が関わってくれるなら、もっと…」
「決まりだな」
佐夜子も、宗史朗も何も言葉を発さない。無言は同意と受け取った康介は話を続ける。
「一晩だけ時間を取ろう…宗史朗は俺に撮影のすべての権限をゆだねる、俺は佐夜子さんに出演する最終決定権をゆだねる、佐夜子さんはシナリオの修正案を宗史朗にゆだねる…どうだろう、互いが信じられるようになれるなら、お互いに誰かにゆだねてみるというのは、決して悪い話ではないと思うがね」