“トップマート”と書かれた看板を、煌々と照らすはずの照明が1か所切れている。そんなことが気になるぐらい、時間がたったかもしれない。
午後5時までと考えていたが、ひょっとすると明日の仕入れのためにスーパーに来るかもしれない…午後10時までの閉店まで粘ってみてもいいだろう…康介はそう判断したのだ。
そうこうしているうちに時間は午後8時になり、半額シールが総菜に貼られることになると、それを知っていてか、自転車で乗り付けてくる若者が目立つようになった。今日は空振りか…そう思っていた矢先に、不釣り合いな車が駐車場に入ってきた。
「先生、ありがとうございます」
「君のためだ、なんてことはないよ」
康介が聞き取れたのは、その2つの言葉だった。だが、康介は見逃さなかった。
中年の男性に礼を言っているのは、浅田佐夜子。そして、礼を言われている中年の男性は、佐那浩二…奴に評価された映画は、大ヒット間違いなし…映画評論家であり、プロモーターでもある業界の風雲児だ。
佐那浩二と浅田佐夜子が…そんな関係を考えるのは後だ、康介は我に返ると店内に入っていった浅田佐夜子を追う。
佐夜子は、まじまじとパプリカを見つめていた。
イタリア料理にパプリカは欠かせないからな…なんだかホッとしている自分を認めた康介は、再び我に返ると買い物かごを取り、佐夜子の近くに歩み寄る。
「すみません」
佐夜子がパプリカを見つめているタイミングで、自分も同じ商品を見たいのだ…そんな感覚で彼女に歩み寄った康介は、彼女の持っているのと同じ赤色のパプリカを手に取ると、あらゆる角度からそれをまじまじと見つめ始めた。
その様子を見て、佐夜子はパプリカをかごに入れると、次の売り場に移動する。
「この調子でいいな」
康介はほくそ笑んだ。
探偵事務所のバイト経験は、康介の本業にも大いに生かされている。人に付け入るには、共通項を見い出させ、不信感を払しょくさせることから始めろ。事務所の所長が、口を酸っぱくして康介に指導していたことだ。
先ほどの浅田誠也とだってそうだ、なまじっかな知識でイタリア帰りの演劇団員を演じきったが、実際にはイタリアなんか行ったことはないし、イタリア料理屋で配達のアルバイトをしているだけのこと。
この“まるで自分が何でもできてしまう”かのように演じ切る技術と、探偵事務所のバイト経験は大いに役立っていると自身でも思っている康介である。
このまま、浅田佐夜子に近づいてあわよくば…康介の行動は着実に彼女に近づいていた。
「すみません」
鮮魚コーナーでエビを見ていた佐夜子に、再び接近する康介。
「ごめんなさい、さっきから」
今度は康介から佐夜子に詫びた。
「いえ、おかまいなく」
「…“おかまいなく”だなんて、若いのに丁寧なお言葉をご存じですね」
「そうですか…親が…親が使っていたものですから」
今度は2、3ほど会話をすることに成功した。
この調子で、彼女との心理的距離感を近づけていけばいい…康介の作戦は完ぺきに思えた。
レジの順番も、もちろん佐夜子の後に康介だ。品物を袋に詰めるときも、佐夜子の隣に康介。
ここで康介は、わざとパプリカを転がし、佐夜子の足元に落ちるように仕向ける。
「あっ…」
こちらが拾おうと動き出す前に、佐夜子がさっとパプリカを拾う。
「すみません、ありがとうございます」
ここで、佐夜子と初めて正面から向き合う康介。彼女と目線を合わせると、佐夜子が少し顔を赤らめたように見えた。
「もしかして、マルク=マルコの方ですか」
康介はこのタイミングを待っていた。
ただし、この言葉を投げかけた瞬間、彼女がどのように動くかは未知数だった。
もし、マルク=マルコとは関係がないといえば、ストレートにオファーを切り出せばいい。
マルク=マルコと関係があるといえば、逢いたいけど逢えなかったといえばいい。
どちらにせよ、自分はこの会話を契機に、浅田佐夜子と会話をするチャンスをゲットできる。今日の康介は、かなり機転が利くようだった。
「そうですが…あなたは」
佐夜子は何も疑っていない風で、康介に対してあっさりと自身の存在を認める。
「私は槙島康介といいます。しがない演劇屋です」
「演劇屋さんですか…」
演劇、という言葉に何か引っかかったのか、佐夜子は続けようとした言葉をいったん飲み込んだように思えた。
「イタリアで修業をしていました。そのころに食べたパスタの味が忘れられなかったんですが、日本に来てそれを味わえたので覚えていたんです、マルク=マルコさんのことを」
話をパスタの話に切り替えると、再び表情を明るくした佐夜子。やはり、芸術関係の話を切り出さない方がいいかもしれない…康介は少し策を巡らせる。
「弟さん、頑張っておられますね」
「ありがとうございます…なかなか人の話を聞かない頑固者なんですが…槙島さんのお話を聞けば、励みになります」
「いや、それほどのお話は」
「…ですけど、どうして私がマルク=マルコの関係者だと…わかったのですか。私はお店に出ることもありませんから…お店ではお会いしたことがないはずですが…」
康介は“待っていました”と言わんばかりに、佐夜子に対してアプローチを開始する。
「…本当は、あなたに会いたくてお店に通っていたのです」